なぜオムライス町?そのルーツにせまる。

更新日:2021年04月09日

ふわふわの卵にくるんだのは、やさしい味のケチャップライスと、人を想い、感謝する心でした。

オムライスの町として知られる宝達志水町。

オムライス町を名乗るようになったのは、オムライスの生みの親、北橋茂男氏(大阪・北極星の創始者)がまちの出身であったことがきっかけだ。

茂男氏はなぜオムライスを? そして、まちとの関係は? 彼の足跡をたどってみた。

 

オムライス生みの親 北橋茂男氏

オムライス生みの親 北橋茂男シェフ

北橋茂男氏は1900年7月23日、宝達志水町(旧羽咋郡柏崎村)に4人兄弟の3番目として生まれた。

3歳で母を亡くし、父に育てられたが、食事にも苦労するほど貧しく、小学校卒業後は大阪の酒屋に丁稚奉公に出された。

しかし、肋膜炎を患っていったん帰郷。それで食の大切さを痛感し、「うまいものが食えるから」と上京、洋食店見習いとなる。

勤勉でアイデアマンだった茂男氏。苦労しながらもメキメキ頭角を表した。

20歳で大阪のパン屋(神戸屋の前身の神崎屋)に料理長として迎えられ、その後は「洋食の屋台」なども考案。1922年、ついに自分の店を構えた。

それが「パンヤの食堂」だ。

洋食が珍しくて高価だった時代。ホテルの朝食(1円)の10分の1、かけうどんと同じ10銭で食べられる洋食がヒットし、大繁盛店になった。やがて24店舗に従業員550人、1日の最高来客数が35,000人を数える大企業に。「外食産業の祖」と称えられることになる。

パンヤの食堂

 

 

 

はじまりは、胃の弱いお客さん。「オムレツとライスでオムライスでんな」

北極星のオムライス

ところで、オムライスの登場は「パンヤの食堂」の開店から3年後。

ある日のこと。胃が弱く、オムレツと白飯しか注文しない常連客を気づかい、「たまには違うものを」と、ケチャップライスを薄焼き卵で包んで差し出した。

「うまい!なんという料理だ」と尋ねられ、とっさに「オムレツとライスだからオムライスでんな」と答えのが、国民的な大人気メニューの誕生である。

当時の北極星ビル

大阪で初となった複合ビル

1936年、オムライス発祥の店は難波に引っ越し、「北極星」と名前を変えた。

店名は、同じ石川県出身の政治家・永井柳太郎氏(永井道雄元文部大臣の父)の、「生活の道しるべせよ北極の天に輝く明星の如く」に因み、北陸や北橋の「北」も込められているという。

茂男氏の熱量は洋食の枠を越えてあふれ、朝鮮・中華料理、野草・薬草、ホルモン、栄養学とさまざまにおよんだ。

西洋料理の手法で内蔵を調理し、健康・強壮食として提供。それまで化粧品などに使われていたホルモンという言葉を、料理に持ち込んで商標登録した。

オムライスだけでなく、ホルモン料理も、北橋氏の考案というのはびっくりである。

ただし、ホルモンを広めたことを「私の罪悪であったかも」と後に著書で後悔している。

美食を知りつくした氏は、肉の食べ過ぎなどによる健康被害を嘆き、野菜や野草を食べる大切さを説くようになった。

太平洋戦争の末期には、栄養不足の国民に向けて「野草食うべし運動」も起こしたそうだ。

 

客へ、親へ、故郷へ、愛はとめどなく。 支えとなった父の教え。

3歳で母と死別し、13歳で故郷を離れざるを得なかった茂男氏。それゆえか親や郷里への思いは強く、そんな情熱を支えたのが仏教で、同郷の宗教家・暁烏敏に信仰へと導かれたそうだ。

もともと北陸は、浄土真宗信仰が盛んな土地。「幼時より父に『食前には南無阿弥陀仏を3唱せよ』と厳しくいわれた」と記しており、いつもそばに仏教があった。

幼い頃に母を亡くした北橋は、丁稚時代のつらいとき、常に念仏を唱え、心の支えにしてきたという。

「ご縁に感謝し、報いよ」との教えのままに、その愛はお客に対しても惜しみなく注がれた。そんな北橋の深い愛がオムライスという料理を生んだとも言えるだろう。

 

また、茂男氏の偉業でひときわ輝いているのが、故郷への並外れた支援である。

小学校の校舎、中学校の体育館…、出身地への寄贈は数知れず、就職のあてのない若者たちを大勢大阪に呼び寄せ、「北極星」に雇い入れた。そして我が子のように育てたという。

パンヤの食堂で働く若者たち

パンヤの食堂で働く若者たち

 

こんな逸話が残っている。

この時代は、貧しく学校で学ぶことができない子どもが少なくなかった。

茂男氏は、北極星青年学校を創設し、自ら校長となり、働く場だけでなく、学ぶ場も整えたという。料理人という枠を遙かに超えたまさに偉業である。

そんな茂男氏の深い愛は、故郷の地でも実を結ぶこととなる。

 

 

ふるさとに拓く「やわらぎの郷」

やわらぎの郷

桜の名所として知られるやわらぎの郷。お花見の季節には多くのファンが訪れる。

 
 
茂男氏が故郷につくった拓いた桜の名所がある。「やわらぎの郷」という。
 
昭和30年、茂男氏は私財を投じて宝達志水町敷浪の地に「やわらぎの郷」を創設した。故郷の人々の心の支えになる場所にしたいという茂男氏の念願であった。
 
「やわらぎ」という冠名は、聖徳太子の十七条憲法で知られる、「和(やわらぎ)をもって貴しとなす」をルーツとしており、やわらぎの郷の敷地内には、太子堂をはじめ、随所に聖徳太子が祀られている。
 
また、やわらぎの郷には茂男氏の「薬草」への強い思いが色濃く反映されている。
料理人である茂男氏は、薬草に興味をもっていた。小さい頃から体が弱かったことが食へのこだわりへとつながっていたようだ。
 
そんな茂男氏の薬草へのこだわりの表れが太子堂に天井絵として残っている。
絵の作者は、日本のゴーギャンと呼ばれる孤高の画家、田中一村。
茂男氏がなぜ一村に依頼したかは不明だが、当時無名だった孤高の画家は2カ月近くここに滞在し、薬草図49枚や白蓮図を描きあげた。
後に一村は奄美大島で自らの芸術を開花させることになるのだが、そのきっかけになった南国スケッチ旅行の資金が、茂男氏からの制作料だったという。独自の世界を切り開いた芸術家の作品は、今も「やわらぎの郷」で鑑賞できる。
 
 

オムライスでまちづくり。生みの親の魂は、いつまでもふるさとに。

のど黒と紅ズワイ蟹のおむらい寿し(寿司割烹かわばた)

のど黒と紅ズワイ蟹のおむらい寿し(寿司割烹かわばた)

石焼ビビンバオムライス(焼肉旬彩牛太郎)

石焼ビビンバオムライス(焼肉旬彩牛太郎)

ポークソテーオムライス(志お食堂)

ポークソテーオムライス(志お食堂)

 

 

町内の飲食店では、各店自慢のオムライスが味わえる。スタンダードな昔ながらのオムライスはもちろん、焼肉屋なら「石焼きビビンバオムライス」、寿司割烹なら「オムライ寿し」など個性豊かでユニークなオムライスも楽しめる。

 

郷里を出て「北極星」で働いた若者の中には、金沢に戻って洋食店を開く者も多かったそうだ。町内にも醤油味のオムライスを出す店があり、その店のあるじは、このUターン組の料理店で修業している。

 

茂男氏の味と魂は、今もこのまちで生き続けている。茂男氏が卵で包んだのは、人を愛し、思いやるほっかほかの心であった。