百万石がはじまったまち?!前田利家と宝達志水町の接点を追いかける(前編)
江戸時代、外様でありながら百万石もの大大名に上り詰めた加賀前田家。
栄光の歴史をさかのぼると、藩祖・前田利家と宝達志水町の不思議な縁に目がとまる。
このまちと利家の間には、いったい何が? 出会いの場、菅原集落の歴史を追った。
まずは北野天満宮の分社、菅原神社のお話から。
菅原は、能登随一の稲作地帯であった邑知潟地溝帯の南端、能登半島がもっともくびれているあたりにある静かな村だった。(現在の菅原集落)
ここは、能登で荘園制が始まった場所として、知る人ぞ知る集落。平安時代の末期、能登守として京都からやって来た藤原基頼は、住人弘行という有力者が管理していた菅原地区50町(50ha)の領有権を手に入れると、それを京都の北野天満宮に寄進した。
基頼の目論見は、土地の支配権を国から離して北野天満宮に移せば、後任の国守が手出しできず、土地から得られる収入の一部が自分のものになるという算段だったらしい。これが、記録に残る能登最古の荘園、菅原荘の始まりだ。
そして領地を譲り受けた北野天満宮は、新しい領民との関係を深めるために1114(永久2)年※1)、北陸の村に分霊を送り込んだ。今も地域の信仰を集める菅原神社(かつては菅原寺)は、こうして生まれたのである※2)※3)。
※1)県立図書館資料よりhttps://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/booklist/2019/251.pdf
※2)菅原神社では、分霊を迎えたのは960(天徳4)年としている。
※3)天神様の本地仏とされる木造の十一面観音立像(室町時代)が今も残り、町指定文化財。菅原神社の社坊である遍照坊に保管されている。
※菅原神社には駐車場はありません。ご注意ください。
水に導かれて利家が菅原へ。そこには天神様がいた。
それから時は流れて戦国時代。菅原の歴史にいよいよ前田利家が登場する。
その頃、利家は織田信長の家臣。上杉勢や一向一揆衆の制圧を目指して加賀へ能登へと進攻する織田軍の、司令官・柴田勝家の部下であった。
能登が信長の勢力下に組み込まれていく中で1581(天正9)年3月、利家は能登街道を北上し、飯山(羽咋市)に進駐した。当面ここを居城とするつもりだったらしいが、予定の地は飲料水の便が悪く、計画を変更して街道をバックし、新たに拠点としたのが菅原だ。
菅原といえば、何はさておき菅原神社。利家は当地に滞在中、出陣のたびに神社に詣でて戦勝を祈念したといわれている。ときには戦地にいる利家のもとへ、菅原神社の社僧から守護札が送られることもあり、利家と神社の親密な交流はずっと続いたようだ。利家は、祈願成就のお礼として菅原神社を手厚く保護。今も神社には、利家や代々藩主との関係が記された古文書が残り、前田家ゆかりのかぶとや面頬(顔面を保護する武具)も伝えられている。
そして1581(天正9)年8月、利家は信長から能登一国を与えられ、ついに国持ち大名の仲間入りを果たす。やがて大大名となる前田家の躍進の第一歩。それを呼んだのがここ菅原であった。
道真の子孫を名乗る前田家。菅原との関係はいかに。
加賀前田家は当初、源氏姓を使っていたこともあるようだが、ある時期を境に菅原道真の子孫を名乗り出している。気になるのは、いったいいつ乗り換えたかということ。今のところ、1642(寛永20)年完成の前田家の系図より以前に菅原姓を示した記録はない。
「利家が菅原姓を名乗り出したのは、菅原に来たのがきっかけ」
実は地元では、そう言い伝えられているのだ。証拠はなく、謎は謎のままだけれど、「天満宮」の3文字を彫り上げた利家のよろいも、着用し出したのは菅原駐留のあたりからとも考えられ、想像はふくらむばかりだ。
「利家はどの道を通ったのだろう」。そんなことを考えながら小さな村をめぐってみるのも楽しそうだ。いにしえの面影を宿した旧街道沿いの集落を進むと、山を背に鎮座する菅原神社がある。参拝して牛をなで、社務所で御朱印をいただいたら、しばし妄想の世界に遊んでみたい。
(後編へ続く)
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更新日:2021年12月16日