百万石がはじまったまち?!前田利家と宝達志水町の接点を追いかける(後編)

更新日:2022年11月16日

江戸時代、外様でありながら百万石もの大大名に上り詰めた加賀前田家。

繁栄の歴史をさかのぼると、藩祖・前田利家と宝達志水町との関係に目が留まる。とりわけ歴史ファンの視線が熱いのが、末森城の戦いだ。

お城をめぐる物語を拾い集めた。

 

加越能を結ぶ要の中の要。末森城が標的になった。

末森城は、標高140m足らずの小高い山に築かれた山城だ。見通しが良く、加賀・能登・越中を結ぶ要の場所にあった。

築城の歴史は不明だが、1579(天正7)年には上杉側の家臣、土肥親真が城主を務めていたことがわかっている。しかしその翌年、柴田勝家軍に攻められると親真はあっさり降伏し、1581(天正9)年、能登の領主となった利家の配下に入った。このとき親真は、利家の夫人まつの姪、末守殿を妻に迎えたそうだ。

ところが1583(天正11)年、秀吉と勝家が戦った賤ヶ岳合戦で、親真は戦死してしまう。そこで利家は、重要な拠点である末森城を、重臣・奥村永福に任せることにした。

利家は当時、戦功として石川郡と河北郡を手に入れるとともに、城主が亡くなった金沢城へ、秀吉の命令で七尾から移住。息子の利長の分も含めると、能登から北加賀まで、40万石の領主に昇格していた。

末森合戦が行われたのは、1584(天正12)年のことだ。賤ケ岳で勝利して勢いづく秀吉と、信長の次男・信雄をかつぐ家康が激突した「小牧・長久手の戦い」が各地に波及し、末森城にも飛び火したのだ。

攻めてきたのは、越中の佐々成政である。もともと成政と利家はライバル関係にあった。おそらく成政は、利家のとんとん拍子の出世を妬んだのではないか。家康方についた成政の狙いは、南北に細長い利家の領地を分断すること。率いる兵数は1万5000。手勢500人ほどの城はすぐ落城寸前に陥った。

 

末森城跡 鳥瞰図

末森城跡 鳥瞰図

勇敢な女性たちのおかげで城は落城をまぬがれた?!

いまかいまかと利家の援軍を待ちわびる末森城。佐々軍の激しい攻めに、「もうだめか」とあきらめムードも漂い出していた。

それを一蹴したのが奥村永福の夫人、安(つね)だったそうだ。なぎなたを持って兵士たちを鼓舞。負傷兵を介抱し、おかゆを炊き出して疲弊した家来を激励したとの話は、この戦いの有名なエピソードである。

また、30km離れた金沢城でも勇敢な女性が活躍していた。利家の妻まつ(芳春院)だ。末森城大ピンチの知らせを聞いた利家に、手元の軍勢はわずか。「金沢を離れるな」との秀吉の指示もあり、家臣たちの大方の意見は「援軍は出さない」であった。

そこにまつが登場し、金銀入りの袋を差し出して利家を一喝する。「金銀で兵を養うよう日頃言っているのに、殿は蓄えることばかり。それならこの金銀に槍を持たせて派兵すればいかが」と。辛辣な皮肉で火がついた利家は、1500の兵を引き連れて末森に急行したのだという。

早朝、利家軍は守りの薄い海沿いから回り込み、敵の背後を突いた。城内も援軍の到着で活気づき、慌てた佐々軍はたじたじに。多数の犠牲を出して退却したのだった。

 

この合戦が百万石の礎に。加越能80万石を支配下へ。

その後、前田勢は越中制圧で活躍し、手柄として秀吉から利長に越中3郡が与えられた。ついに前田家は、加賀・能登・越中の3国を治める80万石の大名となり、利家は以降、政権の重鎮としてみるみる存在感を高めていく。こうした経緯から末森城の戦いは、加賀百万石の基盤をつくったエポックメーキングといわれているのだ。

今の末森山に城の姿はない。1615(元和元)年の一国一城令により解体され、本丸主門は金沢城鶴の丸南門に、本丸は藩主の御旅屋として津幡町に移築されたものの、どちらも火災でなくなってしまった。ただ、緑豊かな城山には往時の遺構がたくさん残り、石川県の指定史跡となっているのでぜひ訪ねてみてほしい。

城跡入り口の駐車場からは、本丸まで徒歩20分あまりとお手軽で、武家屋敷跡や三の丸・二の丸の跡などをめぐる散策路が本丸に続いている。道の脇には土塁が見え、空堀なども確認できるため、魅せられる山城ファンも多い。

本丸は、標高のもっとも高い地点にある。そこから見渡すと木々の向こうに日本海が広がり、戦国武士たちの息遣いが聞こえてきそうだ。

今は静かに時を刻む、加賀百万石の出発点。ときどきイノシシも遊びに来るので、2人以上で出かけた方がいいだろう。

 

 

末森城跡 入り口

末森城跡 入り口

末森城跡 本丸

末森城跡 本丸