宝達志水町末森城等城館跡群調査の概要(平成17年-18年)
調査の目的
宝達志水町教育委員会は、町の歴史を町民の方々を始め、広く「地域の歴史」を知っていただくことを目的として、町内に点在する中世の城館跡について、その場所の範囲や様相、使われていた目的などを調査し、将来は県や国の史跡として文化財指定を受けられるよう目指しています。
坪井山砦の場所と伝承
坪井山砦(坪山砦)は、町の南部にある坪山集落の背後にあり、当時の加賀と能登を結ぶ道脇の山上にあります。
江戸時代以前に文献によれば、永禄10年(1567)に加賀方面からの防御の目的で、七尾城の砦の一つとして造られた史料があるほか、天正12年(1584)に越中(現在の富山県)から、前田利家の領地であった加賀・能登の分断を目的として末森城に攻め込んだ「末森合戦」では、佐々成政が「本陣」として使ったという史料が残っています。
文献史料
自養録紙背文書・末森記
本陣説明
戦場において大将の位置する本営
調査の内容
17年度は、城跡全体の遺跡としての状況を知るための測量調査と、一部の区域で発掘調査を行いました。
測量調査からは、標高約54メートルの城跡でも最も高い区域で、堀や土塁といった城づくりに伴う施設と思われる遺構を確認することが出来ました。
遺構は、東西約26メートル南北約55メートルの「曲輪」とよばれる平坦面(主郭)と、その周囲に土塁状の高まりと堀状の落ち込みが見られる一段低い平面が巡らされており、この本陣跡の北側・西側に延びる尾根上の平坦面については、明確な城跡としての構造物跡を見ることは出来ませんが、いずれも人の手によって作られたものと考えられます。
発掘調査は、今の状態で遺構として見ることができる本陣跡推定地を対象として、山上の大きな曲輪と周囲に巡らされた幅約5メートル程度の平坦面を含めて、東西に横断するように発掘作業を行いました。
土塁説明
敵や動物の侵入を防ぐため、古代から近世にわたって城、寺、豪族の住居、集落などの周囲に築かれた連続した土盛りのこと。
遺構説明
過去の建築物、工作物、土木構造物などが後世に残された状態。過去の構造物の一部分、又は痕跡が確認される全体。
曲輪説明
郭とも言う。城においては削平地のこと。
発掘調査の成果
発掘調査によって、幅約150センチメートル、深さ約250センチメートルの断面がV字型の堀跡と、堀の主郭側に土塁の跡が発見されました。中世の砦として堅固な防御のための構造物を備えていたことがうかがわれました。
発掘された遺物は、縄文時代から弥生時代にかけての磨製石斧や弥生時代の玉づくりのための原石、古代の須恵器の破片が出土しました。
どの様な城だったか
今回の調査では、出土遺物から城の活動していた時代に使用されていたものは発見できませんでしたが、本陣推定区域で確認された堀や土塁は、戦国時代のものと想定することができます。これは、一部に城の遺構が集中しその周りに顕著な構造物の跡が見られない形式が、戦国時代の合戦時に一時的に使用した「陣城」と呼ばれる城郭施設によく見られることによります。
以上のことから、坪井山砦跡は中世の典型的な陣城の一つとして認める事ができ、「末森合戦」において、佐々方が陣を張った時のものと推測することができます。
現在でも本陣跡に立てば、北側正面に末森山をきれいに望むことができます。

1号トレンチ堀跡顕出状況
坪井山砦からの末森城跡(遠景)

発掘調査風景
関連書類
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更新日:2021年02月01日